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「火の鳥」異聞 手塚治虫 家内のことをいろいろ書いたが、要するに家内という女性にたいする僕の見方には、じつは"前編"と"後編"がある。最初の十五年間は完全に従属的な女性というイメージ。それから、彼女が変身したのか僕が目ざめたのか知らないが、とにかく途中から僕の家内観はガラリと変わった。 これは作品のうえでも似たょうなことがあるょうだ。自分では個性的な、人間らしい女性をかいてきたつもりなのだが、どうもその端ばしに至らないところも出てしまうらしい。 それで、一度えらい目にあったことがある。 アニメ映画「火の鳥2772」をアメリカへ売り込みにいったときのこと。あちこちの大学で上映会をゃったのだが、UCLA (カリフォルニア大学ロサンゼルス校) で学生と話しあう段になって、通訳の人が、 「手塚さん、きょうは気をつけた方がいいですょ。見渡したところ女子学生が多い。あの映画を見て、なにかひとこというはずです。うまくこたえないとタダじゃすみませんよ」 と、おどかすのである。 話しあいが少し進んだところで一人の女子学生が立って 「ミスター・テヅカ、日本の女性はみんなオルガのような境遇なんですか」 という。オルガというのは、「火の鳥2772」に出てくる女性ロボットで、主人公ゴドーが生まれ落ちたときから母親がわりになり、いろんなオモチャに変身したりしてゴドーを育てる。 僕は一瞬、彼女がなにをいいたいのかわからなくて、ポカンとしたが、聞いていると 「オルガほ、しいたげられた女性の見本である。主体性がなく、つねに男に従属している。それをしかも、ロボットにするとはナニゴトであるか」 と、彼女はとうとうとのベ立てた。続いて別の女性が立ち 「あなたは、これまでの作品でもすべて、女性をああいうふうにかいてきたのか」 という。なかにほ僕の作品にくわしい女性もいて「アトム」に出てくるウランちゃん(アトムの妹)などまで例にあげて、ズバズバきびしい発言が続く。 具体的には、どこがどうマズイのか。彼女たちの話を総合すると、 「私たちアメリカ女性がスタッフに加わっていたら、オルガを完全にゴドーと同権にする。なんでもいうことをきくのではなく、自分で主体性をもって、納得できない要求には絶対応じないロボットにするだろう」 ということになる。そうなると話の設定はまるきりやり直さなくてはならない。こりゃあ大変だと思ったが、一面では僕は非常に感心もした。UCLAのあるアメリカ西海山序というのはかなり急進的な学生も多く、ヒッピーの発祥地でもある。つるし上げには、しらけたけれど、 "なるほど、これがアメリカのイキのいい姿か" とも感じ入ったのである。 もっとも、アメリカでもそれだけがすべてではない。僕はある映画雑誌の有名な女性記者のインタビューも受けたが、 「みればみるほど、オルガはかわいい。大丈夫です、これならアメリカで売れます」 と彼女はいってくれた。 日本へ帰ってくると、こんどは女性の描き方が気になって仕方がない。スタッフに、 「君ね、こういう絵コンテを書くっていうのは、女性ベっ視ですよ」なんていったりする。 ただ、そうすると、 「これじゃあ、色っぽくないなァ」 と評判はあまりよろしくないのである。どうも日本では、女性はタオヤカで、いわゆる「かわいい女」でなければならん、という考え方がまだ強いらしい。 それやこれやで、僕は最近、もともとあまり得意でなかった女性をかくのがよけいむずかしくなった気がしている。 元来、僕のかく女性は、三通りだけである。ひとつは妖精型というか、神秘的で正体のよくわからない女性。ひとつは母性型で、「火の鳥」の鳥、「ジャングル大帝」の母ライオンなどがそれにあたる。そして、いまはやりの「ロリ・コン」(ロリータ・コンプレックス=幼女愛好)型。ウランちゃんとか「ブラック・ジャック」のピノコなどを思いうかベていただけばよろしい。 考えてみると、この三つともどこかちょっとチグハグで、ほんとの女性像というのは一人も描いたことがないんじゃないかと思う。 しかし、いつの日か、すばらしく人間らしい女性のドラマを描いてみたい、とは日夜ねがっているのである。 (手塚治虫とっておきの話 新日本出版社2001 (1990) 73-76頁) |